ほっこら日記
園長のちょっといい話
2024-11-06
「子どもをいだく喜びにひたってほしい」 三砂ちづる
いまあなたは、とてもとても忙しいだろうと思う。
慣れない幼い子どもとの日々に翻弄され、やってもやっても、やるべきことが終わらない家の中のあれこれにため息をつき、まして外で仕事のひとつでもしていれば、なんで私だけがこんなにがんばらなきゃいけないのよ、と腹のひとつも立ち、穏やかにぐっすりと眠ってとろとろと夢を見る、ということ自体がどこか遠い世界の出来事のように思うのかもしれない。
おむつもかえなきゃいけないし、おっぱいもあげなきゃいけないし、ちょっと大きくなってきたら「ママ、おしっこ」と起きてくるし。
ああ、私は毎日忙しい。
ゆっくり夢を見ること自体が、「夢」。
ゆっくり眠りたいだけ眠った、なんて、いったいいつのことだったかしら。
残念なことに、というか幸いなことに、というか、時間というものはゆくりなく過ぎ、いま、あなたがやっているようなことはあと数年と続かない。
彼らは学校に行くようになり、あなたの知らないところであなたの知らないことをする時間がふえ、あなたは夜はもう少しよく眠ることができるようになる。
そうすると、朝早くから起きて弁当のひとつも作り、子どもの外のつきあいの後始末などもしなければならなくなってくるけれど。つまりはフェイズが移る。
私はもう50をすぎている。
2人いる子どもは青年になり、文字どおり毎日どこで何をしているのやら。
見上げるような青年になって、私の知らない彼らの日常はまぶしい。
この人たちは、もう私の「手の内」では生きていないのだ。
ときおり、私は夢を見る。
夢の中には子どもたち2人がよく出てくる。
その彼らは、けっしていまのような「男に育った」彼らではない。夢に出てくるのは、幼い彼らだ。
お話ができて、自分のひざにのってくれるくらいの子どもである彼ら。
おそらくあと50年生きても、夢に出てくる私の子どもは、この大きさであるに違いない。
あのね、ママ、あのね、と、とても高い声で私を見上げ、「つまらないこと」をいちいち聞きにきたリ、報告したりする息子たち。
私がしゃがまないと、彼らの視線とは合わず、抱きしめれば、腕に足り、抱き上げれば、そのまま移動できる重さ。私の手の届くところにいる彼ら。
おかあさん、いまあなたのひざにいるお子さんのなんといとおしいことか。
母として、いちばんよい時期。いちばん印象に残る時期。
あなたの子どもはいつもその大きさで、あなたの夢の中で位置をしめ続ける。
あなたが人生でつらいことがあったとき、あなたの子どもたちは、そのような大きさであなたの夢にあらわれる。
それが現実と交錯するいまこそが、あなたの幸いでなくてなんであろうか。
涙ぐむようにして、幼い子どもをかきいだく喜びにひたってほしい。
それはひとときの至福であり、長き人生のうちで一瞬にして失われる、人生の最も美しい時間だからである。